今はすっかり観光商品になってしまった「檜笠」。
木曽の蘭(あららぎ)地区では、終戦後これで生計を立てていた。
父親が檜の板をカンナで削る。これを「ひで」と言ってテープのような木片。
これを水につけ柔らかくして編むのが子供の仕事、「夜なべ」である。
母親がこれを笠にくみ直して、伊那まで背負っていき、農家でお米と交換して
飢えをしのいでいた。
しかし当時は米は統制で、塩尻の駅で見張りに見つかると容赦なく没収。
家で待っていた私は(子供の頃)、これでまた何日もお米を食べられなくなって
泣いた。
毎晩子供が夜なべして、やっと手に出来たお茶碗一杯のお米が取り上げられる。
そのお米何処へ行くんだろうか? 川には捨てるはずがない。
誰かが食べるんだろう。貧しい半世紀も前の記憶がよみがえり、
しばらくこの檜笠の前で佇んでしまった。(木曽の妻籠宿にて撮影)
一粒のお米の尊さを知る人がもう少ない時代になった。